糸井重里さんの『心に染みる』名言集

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あなたの尊敬できる人、憧れる人は誰ですか?

『この人はすげぇな〜』と思える人は、いろんな方面にいらっしゃるかと思いますが、今回は糸井重里さんにフォーカスを当てて、紹介したいと思います。

と言っても、失礼ながら僕は糸井さんのことをほとんど知りませんでした。

僕が興味を持ったのは、糸井さんのことを、すごく尊敬している友達がいて、その子にウェブサイトの存在を教えてもらったことがきっかけでした。

ほぼ日刊イトイ新聞(ほぼ日)

色んなコンテンツがたくさんあって、糸井さんの人間性や考え方が垣間見れたりして、だんだんと、敬意を持つようになりました。
現在は、よく拝見させてもらっています。

 

エッセイを毎日更新されている

で、このサイト、『ほぼ日刊』と言いながら、トップページのエッセイを、きっちり毎日更新されているんですよね。
継続こそ力なりと、ここもほんとカッコイイなと思います。

また、小難しい考察や御託を並べず、『こうじゃないかと思うよねー』と語りかけるようなスタンスの持ち方も好きです。
眉間にシワを寄せて、ゴニョゴニョ言われてもとっつきにくいです。

「人生を豊かにする〜」といった、精神面での名言集はたくさんあるかと思いますが、糸井さんの言葉はもっと人間的というか、血が通っている感じがするんですよね。

 

いつか無くなるものを求めちゃいかんのだよ。

が、いかんせん、このエッセイはブックマークしても、(基本的には)今日の記事は今日しか見ることができません。
気になったものを保存したければ、テキストファイルなどに残しておく必要があります。

ですので、僕は文章を読んで『なるほどな〜』と思うものは、こまめに手元にストックするようにしてきました。
ただ、最近その量が少し増えてきたので、ブログもはじめたことだし、1度アウトプットしてみようと思います。

「いつか無くなるものを求めちゃいかんのだよ。
無くなるものは、求めるためではなく、
そいつで遊ぶために、この世にあるんだからな」

と、ウェブサイトには記されていますが、残したいと思います。

僕は会社勤めをやめて、個人で仕事をしています。
ただ、いざ始めてみると、いろんな意味で弱い自分がたくさん出てくるんですよね。

対外的な弱さと、自己管理が至らない内面の弱さ。

僕はマザー・テレサのような、強い精神を持ち合わせていないので、たまに偉人方のお言葉が杖として必要になることがあります。

 

生きていく上で「はたらくこと」は絶対ですが、1日の半分以上、もっと言うと一生の半分くらいは仕事をすることになると思います。
それなら願わくば、より良い仕事をし、且つ、より良く生きていきたいですよね。

そんなことで今回は、仕事をして、生きていく上で、きっと「引っ掛かり」がある、糸井さんのコトバを引用させて頂きます。

長いですが、どうぞご覧ください。

 

僕が好きな糸井重里さんのコトバ

誰でも出来るかもしれない仕事を与えられたら、そのときこそ、
誰にもできない仕事にしてやろうと思いなさい。

公私混同が上手にできている人は、楽しくいい仕事ができる。

『おかしくなっちゃった』と他人に思われるくらいのことでないと、
新しいことなんかできやしないのだ。

自分の邪魔をするやつとは、たいてい自分なのだ。

文章とは何よりも内容を『伝えること』が最優先なわけですがから、
文章力を磨くことなんかよりも、まず相手の目をしっかり見て、
話せるように練習するのが先決でしょう。

常に自分が出来ることより少し難しいことをやって、
常にしんどいと思っていないと、
出来ることしかやらない屑人間になってしまう。

人をモノとして扱った人は、自分がモノになっている。

影が見えるということは、光が射していればこそのことなのだ。

あらゆる不公平のなかに、チャンスがある。

『忙しい』って、結局何かに使われている状態ですよ。

過剰に何かが欠けているのも才能のうち。

20代30代の頃は『金がすべて』
この頃に『金がすべてじゃない』なんて言うのは嘘つき。
でも50になった時に『金がすべて』と思っているような人生にはしたくない。

「どうやって、食っていく?」
そこからしかはじまらないような気がする。

誰だって飽きるのである、と。
しかし、飽きてないふりをすることで続けられるのだ。
飽きるからやめてしまうのは、アマチュアで、
飽きても飽きてないふりをしているうちに続くのがプロ。

「一度やってみたいと思ってる」ことを、
本気でやろうとしている人は、
昨日も今日も、そのためのなにかをやっているんです。
いや、身も蓋もない言い方ですが、
ホームランでもナンパでも、
実際にやってる人間は、本気なんですよね。

そして、夢のように夢を語るだいたいの人は、
本気じゃなくて、いつか忘れちゃうんです。
ホームランを打てないかもしれないことに、
挫折もしないだろうし、敗けを認める必要もない。
うまくいかなくて謝ったりするようなこともない。
だって、本気じゃないんだから、忘れるだけなんです。

企画だとかアイディアだとか言われるものは、
かたちになる前の段階では、早く見せあったほうがいい。

そうしたら、進行に余裕ができるので、
やり直しとか、もっといいものにするための時間が、しっかりとれるからです。
ただ急ぐために急ぐというわけじゃない。
おちついていいものにする時間がほしいから、
早くやることが大事になってくるのです。

「このごろの若いものは、だらしがない」とか、
「昔はよかった」というような発言は、
太古の昔からずっと続いてるらしいのですが、
それでも、かつて若かったものが、
年をとると言い出すようになるものらしいです。

同じように、若いものが、
「おとなは信じられねぇ」と言うのも、
おそらくずっとくり返されてきたことで、
ぼくも、ある時期まで、そう言ってたように思います。

どちらの発言も、「じぶん」が固定しているんですよね。
「じぶん」は、絶対に「あっち」にはいない。
そういう確信があるから言えるセリフなわけです。

最初から、これは向いてるなんてこと、
なかなかないんですよね。

やってるうちに、だんだんとね、
「うまくできる」ことにおもしろさを感じてきて、
もっと「うまくできる」んじゃないかと、
苦労とか努力を、苦労や努力と思わなくなって、
知らず知らずのうちに他人よりよく練習してたりして、
「うまくできる」の質が高くなっていく。

そんな感じで、技術だとか、構想だとか、方法だとか、
表現だとかが磨かれていくのだと思うのです。

新しいなにかが生まれるのは、
場所なんかもらえなかった者たちが、
苦しまぎれに、「これしかない」とやったことからだ。

道具がなければ、じぶんでつくる。
人手が足りなければ、寝ないでもがんばる。
そういう古臭い冒険心みたいなものが、肝心なのだ。

「コツ」っていうのは、
「使いこなした道具」みたいなものだから、
ことばで、その「コツ」をおぼえても、
それでうまくいくというものではないんだよね。

まだ練習をはじめてもいないときから、
「コツ」を知ろうと思っても、なーんの意味もないし、
それは、ほんとうに「ものにしよう」というときには、
かえって「じゃま」になるような余計な知識なんだ。

これはもう、根拠も証拠もなんにもないんだけど、
ぼくの直感にしか過ぎないかもしれないんだけどね。
いつも機嫌のよくない人とかさ、
ものすごく忙しそうで取りつく島もない人とかさ、
なにかと冷笑的に否定する人とかさ、
どんなことでも悲観的に考える人とかさ、
‥‥いや、ちがってるかもしれないよ
‥‥その
勝手な思いこみかもしれないんだけど、
お風呂に入ってないんじゃないかと思うんだよ。
シャワーだけですませるとか、
ささっと義務的に入って暖まらずに出ちゃうとか、
そういうことしてるんじゃないかとね。

お湯にからだをつけて、ゆっくりと温度の交換をして、
ふー、とか、あ~~とか、ため息ついたりしてさ、
汗かいて、適当に肌なんかも色が変わったりしてね、
そういう時間を過ごすのって、
わりと忘れられてるような気がしたんだよ。

バスルームっていうと、からだを洗うところとか、
清潔方面の考え方する人も多いらしいけど、
そんなに洗わなくたって、じゅうぶん清潔だと思うよ。

そっちじゃないの、入浴の大切は。
お湯にからだをつけて浮力をたのしむ。
そして、温度というごちそうを肌から受けいれる。
湯気を呼吸して、湿り気をいただく。
お湯にじぶんをゆだね、まるごとをやわらかくする。
これを毎日やっている人と、やってない人の間には、
けっこうなちがいがあると思うんだ。

三度三度のめしを、よく噛んで、おいしく食べて。
決まった時間に気分よくうんこして、
たのしみのひとつとしてお風呂にゆっくりつかって、
よく寝て、すっきり起きて、
いつもおだやかに笑顔でいるような人に、
だれも勝てるとは思わないほうがいい。

多くの人が、「3億円あったらなぁ」って、
そんな単位の事件があったときも、
宝くじのコマーシャル見たときも、
一度や二度は語りあったことだろうと思うよ。

「あったらなぁ」までは、誰でもわかるんだけど、
どう使いたいのか、どんなものを買いたいのか、
リアルに3億円をイメージして語るまでにはいかない。
これも、つまりは「言ってるだけ」だからね。

それを、ほんとうにやるにはどうしたらいいのか?
口だけじゃなくて、ほんとにやるためには、
苦労も要るだろうし、犠牲もあると思うし、
他人にお願いすることもあるし、迷惑もかけそうだ。
笑われるかもしれないし、敵をつくるかもしれない。

でも、あらゆることを「言うだけ」にしているよりも、
見えている世界も、じぶんも豊かになると思うんだ。
そういう意味じゃさ、「アイドルになりたい」って言って
歌や踊りの練習をしているこたちって、
「言ってるだけ」の人たちより、本気で生きてるかもよ。

なんだろう、時計というものが発明されてからは、
時間というものが、金型のようになってしまったし、
お金というものが一般的になったことによって、
予算という考え方も一般化してしまった。

でも、そればっかりじゃないはずなんだよなぁ。
「目的+予算+期限」という考え方で、
すべてやれるということはない。
人生は、算数でもあるだろうけれど、芸術でもあるよね。

いまの世の中、あっちでもこっちでも、
「お客さまにどうやってよろこんでいただくか」
ばかりを考えていますよね。
「うちは考えてない」とか言うと角が立つから、
誰もが、「もちろん考えてますよ、必死で」
というようなことを言うと思います。
それが常識ということになっているし、
それをやっていないと、
不誠実だということにされてしまいそうです。

「ほぼ日」をはじめて間もないころ、
激しい雨の日に、野田秀樹さんの舞台に行きました。
びっしょり濡れた傘のしずくを切って、
傘をさしていてもしずくだらけになった上着を叩いて、
観客たちはじぶんの座席へと急いでいました。
ぼくも、そうしていました。
こんな夜にこんな大変な思いをしても、人はここに来る。
「こうでなきゃなぁ」と、感心したのを憶えています。

お客さまへの敬意と、お客さまの熱意の交差点‥‥。
そういう場所は、必ずあるはずのものです。

目上とか目下ということばにとらわれずに、
あらゆる人のことを「ばかにしちゃだめだ」と、
根っから思っている人のすることは、いい感じです。
逆に、「敬意」の対象を限定していて、
多くの人を「こんなやつ」と思っている人のすることは、
いやな感じというふうに思えるのではないでしょうか。

東北の被災した人たちのところで、
まだ傷口がひりひりしているような時期に、
ぼくらは、よく食事をごちそうされた。
なにも困ってないぼくらは、遠慮しなければと思って、
ぐずぐずしていたら、きっぱりと言われた。
「わたしたちは、ごちそうしたいんです。
遠くから来てくれた人に、あんまりできないけど、
わたしたちのほうが、食べてってほしいんです」、と。
贈りものをされることも、うれしいかもしれないが、
贈りものをすることも、人のしたい、うれしいことだ。

じぶんに、いま力がないと思ったときにも、
だれかのために出す力は、ちょっと残っていたりする。
そして、力って、使うほどついていくものだ。
「だれかの力になりたい」というのは、
本能に近いようなことなんじゃないかと思う。

自然な人ばかりでなく、法人と呼ばれる会社も、
きっと似たようなものだと思えるのだ。
「なんで働くの?」は、
こどもが勉強する理由と同じかもしれない。
「だれかの力になりたいと思ったときに、
じぶんに力がなかったら、とても残念だろう?」
はたらくと、力がつく。力を使うと、力がつく。
ついた力は、結果的に、じぶんたちをも助けてくれる。

真に、おもしろくなったりするのは、
「もうやめようかな」と泣いたりしてからのことです。
それでもやめずに毎日続けているうちに、
おもしろいかどうかさえも、どうでもよくなります。

考えることは考えるのですが、やっぱり考えが足りない。
どこかに「シロウト」なところがあるからこそ、
最初の一歩を踏み出せるのだと思います。

「無謀」と言っては言い過ぎだけど、
「冒険」というくらいの「賭けの要素」がないと、
やっぱり、なにもはじめられないんですよね。

「暴力」という「パワー」を使う道を選んだ人間は、
その反作用としての「暴力」に警戒する必要があります。
つまり、こっち側からの暴力には、
あっち側からの暴力がセットでついてくるというわけで。
おちおちできない、うかうかしてらんない。
暴力を使うと決めた人間の自由というのは、
相当に制限されざるを得ないということですよね。

ただ、『仁義なき戦い』みたいな暴力の世界だけでなく、
あらゆる「パワー」というものには、
みんなそういう「作用と反作用」の
押し合いへし合いがあるんだと、
思ったほうがいいんじゃないでしょうかねー。

「ぼくは頭がいい」「わしは金を持ってるど」
「わたしは美人よ」「おいらは賢いぜ」‥‥と、
どれもみんな暴力じゃないけれど、「パワー」です。
その「パワー」に、ただ単に
おとなしくひれ伏している人ばかりじゃぁない。
反対側から、「ぼくこそ、わたしこそ」という力が、
押し返すようにかかってくるんですよねー。

暴力以外でも、あらゆる「武器」は取り扱い注意ですぜ。

なんだか忙しいし、忙しいのはいやだなぁと思ってる。
でも、ぼくよりもっとずっと忙しいのに、
涼しい顔して世のため人のために働いてる人もいて、
ああおれなんかが忙しいとか文句言ってちゃいけないなと思っているよ‥‥

「わらしべ長者」の話は、みんな知ってますよね。
一本の「わら」が、
「アブ」を結びつけられて「おもちゃ」になる。
その「おもちゃ」は「みかん」と交換される。
「みかん」はのどの渇いた人との間で、
「上等な反物」と取りかえられる。
そうして「反物」は「馬」に、
「馬」は「家」へと変化していく。
ま、お話の世界のことですから、
無理があると言われたらあるんですけどね。

これ、いろんなこと教えられるお話です。
いろんな教訓が語られてきたと思います。
で、ぼくは、昨日ね、散歩しながらこう思ったんです。

まず、この話、最初の「わらしべ」がないと、
見事な「連続交換ものがたり」は成立しません。
おもしろいもんで、最初に「10円」という貨幣だったら、
「10円」そのものは、「10円」のままなんですよね。
誰も「20円」に交換してくれないんです。
お金って、なにかの姿に変えないと、
ただの魅力のない記号なんですよね。
「なんにでも変えられる」と思うのは自由ですが、
それは、「なにか」に変えてからの価値を、
勝手に想像しているだけです。
「お金の価値を想像しているもの」どうしでないと、
お金って、「わらしべ」より格下だとも言えます。

そして、「わらしべ」に魅力があるというのは、
人間だからこそ感じられることなんです。
アブを結んだ「おもちゃ」が、おもしろかった。
つまり、魅力を感じる人がいたから
「みかん」に交換してもらえたんです。
で、「みかん」を持ってた人は、
損したと思ってるのではなく、よろこんでいるわけで、
この「交換」は、他人によって評論できないんですね。
つまりは、普遍的な「等価交換」って、ないんです。
ここんところも、おもしろいことです。
そういうことをおもしろなぁと思いながら散歩していて、
昨日の結論は、「おもしろさは価値」ということでした。

冷めたピザも、あたためて湯気を立てればおいしくなる。

最初、いやいややっていたことでも、
なにかの拍子に「好き」になると、
もっとやりたくなっちゃうんですよね。
なんなんでしょうね、「好き」ってねぇ。

「明日がある」ということは、
「やりなおしが利く」という意味じゃないんです。
今日、いまやっていることの結果の上に、
次や、その次の真剣さを重ねていけるってことなんです。
この一撃に、すべてを望んで最大効果を狙っても、
それじゃ1点にしかならないかもしれない。
でも、この一度の続き続きを連ならせたら、
5点にでも10点にでも100点にでもつながるわけです。

じぶんで食べることも、
たしかにおいしいしうれしいけど、
誰かがおいしそうに食べてるのを見てるのって、
もっとうれしいとも言えます。

よく、おかあさんとか、こどもだけに食べさせて、
「おかあさんは、いいの?」なんて不思議がられてね、
「おかあさん、おなかいっぱいだから」
なんて答えてる場面が、ありますよね。
あれ、けっして、やせ我慢してるわけじゃなくて、
じぶんが食べるよりも、こどもがよろこんで
食べているところを見てるほうが、うれしいんです。
(ま、そのあたり、例外もあるし、個性もあるし、
 「そんなはずはないです」なんて意見もありそうですが)

その、人に「よろこんでもらう」ということは、
もう、ものすごいことだと思うんですよね。
おそらく、かなり具体的に
脳内に快感物質がぽたぽた落ちているような状態がある。
それは、人間という生きものに、あらかじめ
組み込まれた性質なんじゃないかと思うんですよね。
よちよち歩きの幼児だって、
よだれでべとべとのなにやらをくれようとします。
「あなたのよろこびが、わたしのよろこび」
ということを、もっと率直な言い方をすると
「じぶんがうれしいから、よろこんでもらいたい」
となるように思います。
でも、その率直さを前面に出すと、
相手がうれしい気持ちになれないので、
つまり「よろこんでもらえなくなる」でしょう。
そうすると、じぶんもよろこべないというわけです。

「よろこんでもらう」って、実はなによりの快感です。
「はたらくこと」も、それを得るひとつの方法だし、
たぶん、恋愛だって、家族だってそうなんじゃないかな。
大きな災いに巻き込まれると、
「よろこんでもらう」というよろこびが
味わいにくくなる、という悲しさもあるんですよね。
いつでも人は、「よろこんでくれる人」を、
よろこばせたいと思って探しているのかもしれない。

いつもじぶんには「やさしい」恋人が、
レストランで、ひどい言い方で店の人を怒鳴ってる場合、
それは「やさしい人」であるのか、どうか。
「やさしい」と見えていることが、
実は嫌われたくないだけのことだったりとか。
誰にでも「やさしい」っていうことが、
八方美人ということと、どこがちがうのだろうとか。
考えていると、「やさしい」って、ほんとに謎なんです。

じぶんの足で立っている「ここ」が、
いつのまにか、陸地でなくなっているかもしれない。
それでも立ち続けようとすれば、おぼれてしまう。
そんなことだって、いくらでもあるんだと思います。
ただ、ね、
「いいとかわるいとかに関係なく、
そういう方向に動いている」という状況で、
あえて、「ここに立ち続ける」という判断もあります。

流れに乗って動いていくのも、ひとつの判断。
流れを知っていても、立ち続けるのも、ひとつの判断。

「ユーモア」というものの意味が、
どういうふうに辞書に書かれているかは別にして、
ぼくが勝手に決めたのは、
やっぱり、「寛容」のなかま、ということなんだ。
「寛容」そのものじゃないのかもしれない。
でも、「寛容」がなければ、「ユーモア」はないよね。
そして「ユーモア」があるところには、「寛容」がある。
関係や場というものを、やわらかくあたたかくするもの。
敵と味方に分けるのではなく、
勝ちと敗けを区別するのでなく、
どちらにもよろこびへの道を指し示せるのは、
おそらく「寛容」と、そのなかまの「ユーモア」だけだ。
あらゆる立派な意志も、「寛容」や「ユーモア」と
いっしょになければ、冷たく脆いものになってしまう。
「ユーモア」は、すべての人の守り神でもあると思うよ。

俯瞰しているばかりで、手も足も動かないのは困る。
でも、アリの視点で動いているばかりじゃ、
なにをしているのかわからなくなっちゃうんですよね。
そういうことに、休んでパソコンから離れて気づく。
こりゃぁ、いいことだなぁと思ったんです。
じぶんでも、よく思うことなのですが、
しっかり休むと、視界がクリアになりますし、
呼吸が大きく深くなるような気がしますものねー。

ふつうの人の、ふつうの感覚からすると、
だいたいのことは、怖い。
ただ、絶対にうまく行くならやりたいと思ってる。
そうじゃなかったら、やめておきたいと決めている。
というわけで、たいていは「やめておこう」になる。
ゆらゆらゆれちゃってるけど、
そのゆれは、「やるぞ」のほうではなく、
「やめておこう」のほうで止まるのである。

ずっと、「やめておこう」を経験しているうちに、
もう、ゆれることさえしなくなっていく。
うまくいかなかったときに、
どれほどのひどい目にあうか、
なんてことも考えなくなってしまう。
そのことに失敗したら、
「いのちまでとられるわけじゃない」けれど、
どれくらいの被害があるのか、
それさえも考えなくなってしまうのだ。
うまくいかなかった場合、どれくらいの目にあうのか。
それをちゃんと考えてみると、
あんがいたいしたことないと気づくこともある。
「いのちまでとられるわけじゃない」んだよなぁ。

ある種の洗練の極地っていうのは、
「止まった水」じゃないけど、
いいんだかわるいんだか、きれいなんだかどうなんだか、
生きてるんだか死んでるんだか‥‥みたいなね、
「誰と誰がその価値を求めているんだろう?」
というような閉じ切った世界になっちゃうんじゃないか。
憧れつつも、そんなことを思うんですよ。

名店と言われる料理店の店主と、なじみの上客が、
どちらも洗練されてって年もとってって、
やがてはいっしょに洗練という以上の、衰えの世界に
向っていってしまうことにはならないのだろうか。

センスとか、美意識とか、洗練とかって、
そのまままっすぐ行くと
「静かな死」に向うような気がするんですよね。

いわゆる「できる人」というのが、
なんとなくちょっと感じわるく思えるというのは、
どういうことなんだろう、と考えていた。

「できる人」というのは、文字通り「できる」わけだ。
同じことを、他の人よりもうまくできる。
目的にたどりつくことができる。
なにかと効率よくできる。
これは、なんにも感じわるくなんかない。

うまくできるためには、どうするか。
目的を達成するためには、どうするか。
効率をよくするためにどうするか。
これはつまり、「したほうがいいこと」をして、
「しないほうがいいこと」をしないことになる。

なにかをうまく「できる」ようにするためには、
「したほうがいいこと」をするのは得になるし、
「しないほうがいいこと」をするのは損になる。
得になることは、どんどん見つけて、どんどんする。
損になることも、どんどん見つけて、しないようにする。

こうやって順番に考えてみたら、
つまり、いわゆる「できる人」がやっていることは、
得になることをして損になることをしない、
ということなんじゃないかと言えるのではないか。
「誰でもそうなんじゃない?」と言われるかもしれない。
誰でも損得勘定しているのかもしれないけれど、
そんなふうに徹し切れないのが、
「できる人」じゃない「ふつうの人」なのだろう。

「できる人」でも、感じわるく思えない人もいそうだ。
そういうのは、どういう人なのだろうか。
おそらく、だけれど、
「ふつうの人は徹しきれない」ということについて、
そのことを、尊重している人なのではないだろうか。
自らのなかにある「ふつうの人」成分を尊重し、
たくさんいる「ふつうの人」を尊重しながら、
損と得とを考えて実行していくということだろうか。
‥‥それは、おそらく「ふつうの人」のために。

「屁をひりて 可笑しくもなし 独り者」
高校生のころに、ふと知ってしまった川柳なのだが、
なんだか、いまにいたるまでずっと好きでいる。

人のいないところで放屁しても、笑うことはない。
ぷーだか、すーだかいう音はあるだろう。
匂いもあるかもしれない、たぶん、あるな。
恥ずかしくもなければ、可笑しくもない。
じゃ、と考えてみる。
人がいるときの放屁は、どうして可笑しいのだろう。
人の前で屁をすることは、なぜ恥ずかしいのだろう。

それは、裸であるということも同じだ。
一人暮らしの部屋で、まる裸でいたとしても、
恥ずかしいこともないし、うれしくもない。
そして、他の人が同じ空間にいた場合には、
そういうわけにいかない。
恥ずかしかったりもするし、怖さを感じるかもしれない。
そして、そのことを前提にしたうえで、
あえて、裸になることだってある。

人って、ひとりでいると、ものすごく単純になるものだ。
ひとりでうまいものを食って、
「うまい」と感じることはあるだろうが、
「うまいね」という場面がないことで、
うまさを感じる質量は、少なくなるのではないだろうか。

じぶんと、他の人の間を、感覚は乱反射して増幅する。
映画なんかは、家でひとりで観るよりも、
たくさんの人とともに映画館で観るようにできている。
おそらく、そういう前提でつくられているように思う。

ただね、他人といっしょにいる時間がすべてになったら、
「じぶんとの対話」はやりにくくなるはずだ。
「自問自答」というかたちで、
じぶん自身に問いかけて、じぶんから答えを引きだす。
このことをなくしたら、ひとりひとりの人間の、
ほんとの「その人らしさ」は育っていかないように思う。
屁をひりて可笑しがる時間と、屁に笑いもせぬ時間と、
そうだなぁ、どっちもとても大事なのだろうなぁ。

いま、個人的には、ちょっとおもしろい時期で、
目玉がものすごく前を向いている感じなんです。
わりと「やりたいこと」がはっきりあって、
それを、集中してやりたいという気持ちがあります。

でもね、長年生きてきた経験からすると、
なにかに「集中したい」なんていうときには、
かえってめんどうなことから逃げないほうがいいんです。
だから、集中の逆になるようなことにも積極的です。
本だとか、DVDだとかも、
こういうときのほうが観たくなるものだから、
日頃よりも読書量やら増えてたりしてね。
おかしなもんだ、まったく。

なにかをはじめようとするときに、
だいたい会社の人たちのやり方だと、
「似たようなことを調べはじめる」でしょう。
「これは、こうなってるのか」
「こっちは、こうしたわけか、たいしたことないな」
「いやいや、こういうのもあって、なかなかやるもんだ」
なんて具合に、建前としては
「敵の手の内をたしかめる」みたいなことをしたがる。
特に、大きい会社なんかだと、人手もお金も使えるから、
ものすごく調べつくしちゃうことだってできます。

これが、いやだったんだよなぁ、ぼくは。
たぶん、「敵を知り己を知れば百戦危うからず」という
昔の中国のえらい人の兵法だと思うんだけど、
「どんだけ敵を知ればええねんっ!」ちゅうの。
それに、なにかやるときに、
必ず敵がいるとはかぎらないですよね。
特に、まったく新しいことをやるときには、
まずは敵さえもいない荒野に立つわけですよ。
それでも、あれこれと「似たようなこと」を調べてると、
もう、「似たようこと」のうちでの、
「いちばんいいものをつくりましょう」となっちゃう。

だーから、調べちゃだめだとは言いませんですけどさ。
横を見たり、敵を見たりしてるっていうのは、
ある意味、ラクすぎるクリエイティブだと思うんですよ。
さっきの、孫子だかのことばでいえば、
「己を知れば」のほうが重要なんじゃないかな。
領地の分捕り合戦じゃない場合も多いんだから、
「己を知れば」の先に、新大陸があるってこともある。

「どこかに百万円落ちてないかなぁ」と言ってる人で、
ほんとうに、百万円落ちてるかどうか目を見開いて、
注意深く暮らしている人は、まず、いないのではないか。

夢のようなことを口にする人と、
夢のようなことを実現する人とは、
まったくちがうのではないかと思っている。

「どこかに百万円落ちてないかなぁ」にしても、
「白馬に乗った王子様がわたしを」にしても、
ほんとうじゃないことを設定して口にしている。

口にする前の思いは、きっとあるはずなのだ。
「大きなお金を手にしたい」だとか、
「わたしを幸せにしてくれる人と結ばれたい」だとか、
本気で思ったら、糸口を見つけはじめるようなことだ。
でも、その糸口を見つけるところまで行く前に、
「大金が落ちている」だとか、「王子様がいる」とかの
「言うだけの夢」に変換しちゃっているのだ。

糸口を見つける、その糸を引っぱりはじめる。
それをするのは、なかなか大変なことなのかもしれない。
頭も使うし、他の人の協力も必要だろうし、
あり余っているわけでもない時間を、
たくさん使わなくてはならないだろうし、
その前に、足や手を動かすことが大事かもしれない。

「誰かマスクメロンをまるごと一個くれないかな」
と言いっぱなしで待ち続けているよりも、
じぶんの財布のお金で買ってみたらいいのだ。
そのせいで、数日食うに困ったとしても、
「マスクメロンまるごと一個食べる」という経験が、
なにかを魂に刻んでくれるにちがいないと思う。

おそらく、人間には、ある種の「趣味」として、
本気じゃない夢を語りたいということがあるのだろう。
本気になるか、語るのをやめるかしたほうが、
ほんとの夢は叶うだろうなぁと、ぼくは思う。
ま、本気になって、しかもそれを持続させるというのは、
寝ころんでテレビ見てるより、むつかしいからなぁ。

言いたいことが『10』あるなら、
とにかくそれを『1』にしぼって伝える。

 

さいごに

以上、いかがでしたでしょうか?
全然『1に絞って伝える』ことができていませんが、個人的にグッと感じるものがあった糸井さんの言葉です。

「仕事」と「遊び」を融合するなんてことは、理想論だと思います。
ただ、僕が個人事業主になった最大の目的は、そこでした。

そして、それを実践している糸井さんを、すごく尊敬します。
恐らく外部が見るより、相当大変な努力をされてきたことと思いますが、僕もそこを目指して少しずつ頑張っていきたいと思っています。

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